世界的哲学誌に論文発表 KIP研究員のモーティマー博士――新たな「自己の社会的構想」と実践的意義
京都哲学研究所の研究員で、オックスフォード大学インテーザ・サンパオロ・リサーチフェローと京都大学経営管理大学院特定講師も務めるサミュエル・モーティマー博士が執筆した新たな論文が、哲学分野における世界有数の学術誌『The Philosophical Quarterly』に掲載されました。
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ニュース・記事内容
モーティマー博士は論文「Becoming Authentic: A Social Conception of the Self」(真正になること:自己の社会的構想)において、出口康夫京大教授が提唱する「われわれとしての自己」の枠組みを発展させ、個人の真正な(オーセンティックな)価値観や意思決定は、内省的な思索のみならず、他者との社会的な関係性の中でこそ立ち現れる、という新たな視点を提示します。真正性が社会関係に深く根ざしていることを解き明かす今回の論文は、ビジネスリーダーシップ、公共政策、AIガバナンスといった現実社会の課題にも重要な示唆を与えるものです。
真正性(オーセンティシティ)をめぐる哲学的問い
「真正性」に関する議論は、しばしば二つの核となる問いを中心に展開されます。
- 真正な自己(Authentic Self): 個人の価値観やコミットメントが、外部からの圧力の単なる反映ではなく、真にその人自身のものであるか、という問い。
- 真正な主体性(Authentic Agency): 個人の意思決定や行動が、熟慮された自身の価値観を真に表現しているか、という問い。
モーティマー博士は、これら二つの概念は相互依存的であると指摘します。すなわち、真正な意思決定を行うためには真正な自己が必要ですが、同時に、私たちが行う意思決定を通じて真正な自己は形成されていくのです。博士は、これが、多くの西洋哲学的思考の根底にある過度に個人主義的な自己観を問い直さない限り、パラドックス(逆説)に陥ることを示します。
出口教授の「自己は単なる『私(I)』ではなく、『われわれ(We)』として最もよく記述される」という洞察に基づき、モーティマー博士は、自己が本質的に社会的な性質を持つことを認識することが、いかにしてこのパラドックスを超える鍵となるかを明らかにします。博士の説明によれば、真正性は、個人がその意思決定や行動を他者との「信頼関係」の中に基礎づけるときに最も十全なかたちで現れます。このような人と人とのつながりは、価値を発見し追求する私たちの能力を制約するのではなく、むしろ拡張する力となるのです。
哲学の枠を超えた意義:リーダーシップ、企業価値、公共政策、そしてAIへの示唆
モーティマー博士の研究は、哲学の領域を超え、現代社会の様々な分野に実践的な洞察を提供します。
- リーダーシップと組織文化
- 協働的意思決定: 従来のリーダーシップ論は個人のビジョンやカリスマ性に焦点を当てがちですが、本研究はリーダーの主体性や真正性が、導く人々の主体性やアイデンティティと深く結びついていることを示唆します。これを認識するリーダーは、組織内に共通の目的意識を育み、メンバー一人ひとりが組織目標に主体的に関与していると感じられる文化を醸成できるでしょう。
- 信頼と真正性: 自己が信頼関係によって形作られるならば、注意深く耳を傾け、権限を委譲し、多様な専門性を尊重することで積極的に信頼を築くリーダーは、従業員のより深いエンゲージメント(貢献意欲)を引き出すことができます。リーダー自身のアイデンティティが、導く人々によって部分的に構成されていると認識するとき、リーダーは組織にとって「真正な」存在となり得るのです。
- 企業理念・価値観と戦略
- 組織内部での価値観の共有: 多くの企業が理念や価値観を掲げますが、従業員の真の参加なくしては、それらは空虚な言葉に留まりがちです。モーティマー博士の「われわれ」の視点は、企業理念・価値観が、トップダウンの指示だけでなく、従業員の集合的な自己理解を反映してこそ、組織に深く浸透し意味を持つことを示しています。
- 変革への対応(チェンジマネジメント): 合併、組織再編、新規事業展開などは、従業員の「会社における自分は何者か」という感覚を揺るがしかねません。真正性に関する関係論的な視点は、個人および集団のアイデンティティを尊重しながら変革を進めるための戦略を提供し、抵抗を減らし組織の結束力を高めることに貢献します。
- 公共政策とコミュニティ形成
- 参加型ガバナンス: 私たちのアイデンティティが社会的に形成されるものであるならば、政策立案もその社会的アイデンティティを考慮に入れるべきです。これは、行政機関が地域コミュニティと協働して政策をデザインし、コミュニティを結びつける多様な価値観のネットワークを政策に反映させる、新しいアプローチの可能性を示唆します。
- 社会的信頼と共同体のウェルビーイング: 政策が効果を発揮するには、人々が提案された解決策の中に「自分たちのことだ」と認識できる必要があります。本研究は、政策に反映されるべき自己とは、個々人が属する広範な社会的ネットワークによって構成されていることを示唆しており、社会的信頼の醸成と共同体全体の幸福(ウェルビーイング)向上に繋がる視点を提供します。
- 人工知能(AI)と技術倫理
- 真正性とデジタル時代の媒介作用: 商品推奨から健康診断まで、AIシステムが個人の選択に与える影響が増大する中で、AIは人々が自身や他者をどのように認識するかに影響を与え始めています。モーティマー博士の枠組みは、自己が本質的に社会的なものであるならば、AIは人と人とのつながりを強化するか、あるいは弱めるかによって、私たちの真正性を高める可能性もあれば、損なう可能性もあることを示唆しています。
- 関係性の健全性の保護: 個々の「ユーザーの自律性」のみに焦点を当てるのではなく、AIの設計者や政策立案者は、AIが、真正な自己を育む土壌となる「関係性」そのものにどのような影響を与えるかに注意を払い、その健全性を守る方策を検討する必要があります。
よりつながりのある未来に向けて
真正性を、単に個人的なものとしてではなく、社会的なものとして捉え直すモーティマー博士の研究は、「価値観は個人や集団が互いを積極的に形成しあう中で培われる」という京都哲学研究所の理念と深く共鳴します。当研究所はビジネス、行政、学術界など様々な分野の方々が本研究の洞察に触れ、相互接続が深化する現代世界において「真正であること(Becoming Authentic)」とは何を意味するのか、その対話を共に深めていくことを心より願います。
モーティマー博士の論文に関する詳細は、『The Philosophical Quarterly』のウェブサイトにてご覧いただけます。
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