【対談】京都大学・出口康夫教授とオリィ研究所・吉藤オリィ所長――「中」 身体に宿る「はかなさ」 脆弱性が導く倫理観
京都哲学研究所の共同代表理事を務める京都大学の出口康夫教授が東京・日本橋の分身ロボットカフェDAWN ver.βを訪ね、OriHimeを開発したオリィ研究所の吉藤オリィ所長と対談しました。上中下3回シリーズの「中」です。
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傷や痛みが人間的成長を促す
吉藤所長)一つ質問よろしいですか。出口先生はよく「身体行為」とか「共同身体行為」という言葉を使われますよね。「身体」という2文字が入っているのが面白いなと思って。「共同行為」ではなくて「共同身体行為」。身体があることっていうのは、やはり重要なのでしょうか。
出口教授)そうですね。私の考えで言うと、身体が入ってない共同行為はない。全て結局、身体を使わざるを得ない。身体を使わなくてもできると思っている人もいますが、それは身体が見えなくなっちゃっているだけなんです。
吉藤所長)見えなくなっている?
出口教授)言い換えれば、身体なしでもできるような気になっちゃっているだけであって、よく見ると、実はそこに必ず身体があるということです。たとえば、考えるという行為も、脳という身体部位がないとできないですよね。そして、身体の何がポイントか。切れば血が出て痛む、ということです。鋼鉄の身体ではなくて脆弱性を抱えている。実はこのOriHimeもそうです。電子機器ですので、場合によっては人間の身体より壊れやすかったりする。傷つきやすさであり、儚さと言ってもいい。
吉藤所長)すると、人間が傷つかず、触れられない霊体のような存在だとしたら、共同身体行為は生じないと?
出口教授)そうですね。脆弱な身体をお互い晒し合いつつ行うのが共同身体行為だからです。そして、共同身体行為を行う時には、相手のこと気遣わないといけない。そこに生まれるのが倫理です。道徳とか倫理の一番基礎は、お互いが傷つきやすい存在であるということ。切れば血が出て、最終的に治るかもしれないけれど、傷跡が残ることもあると。
吉藤所長)私たちは小さい頃から少なからず傷つけ合って生きています。その結果が、いま生きている私たちです。傷つけ合えない状態に置かれてしまうと、人間としての成長の機会がなくなってしまうとも言えますね。
出口教授)イマジネーションが湧かないということになりますね。そういった意味で、共同身体行為は特に子供時代にやっておくことが大切です。誰かが転んだら血が出て、痛くて泣き出す。そこに手を差し伸べる。これが一番基本的な「We」の体験です。
吉藤オリィ)Weが傷つくこともありますか。
出口教授)共同身体行為ができなくなると、Weは壊れてIに分解されます。仲違いが起きてうまくいかない時が、まさにそうです。
吉藤所長)一緒にやっても失敗したり、うまくいかなかったり。私たちは日常生活の中で、Weの脆弱性を認識する経験を色々しているんですね。
出口教授)パソコンやスマートフォンで遠隔会議を行うのと、OriHimeを通じて会話することとの決定的な違いは、身体が危険な領域に一歩踏み込んでいることだと思うんです。2次元のパネル画面で参加しているのではなく、OriHimeは3次元空間で眼前にいるでしょう。手を伸ばしたら触ることができます。乱暴なことをすれば、OriHimeを傷つけ、壊してしまう危険もあるわけですね。それは、パイロットさんの身体的な分身を傷つけることになります。そのような危険性をはらんでいるからこそ、本当の交流ができるし、本当のWeになるんです。
身体行為が自己を顕在化
まちゅんさん) 私も2人のお話を聞きながら、OriHimeがいてくれるおかげで私の身体行為を顕在化することができているなって思います。
吉藤所長)OriHimeを遠隔操作するパイロットたちは匿名ではなく、お客様に対して顔写真やイラスト、パイロットネーム(ニックネーム)を表示しています。これらの情報を表に出すことによって、身体性だけでなくパイロットたちの精神性というか、心も晒している。お客様に嫌われるかもしれないし、好かれるかもしれないという意味で、一歩踏み込んでいると思います。
出口教授)アバターと分身のどこが違うのか。違いはOriHimeの動きです。手の動き、頭の動き、顔を上下する頷き。私たちは、これらを身体行為として見ている。パイロットの皆さんは身体行為の主体、すなわち身体行為者です。私の哲学でいうと、身体行為者は自己。まちゅんさんの自己もOiHimeを通じて今ここに現れてきているのですね。
吉藤所長)まちゅんさんは今、出口先生の話を聞きながら頷いていますが、仮にこの動きがAIによって生成され、まちゅんさんの意志と関係なく動いているとしたら、それは自己の現前化ではないわけですね。まちゅんさんを偽って違う人がOriHimeを動かしていたとしたら、それも自己ではない。まちゅんさんの動きであることが保証されて、初めて自己が生じる。
出口教授)ロボットを通じた擬似身体行為だと言う人もいるでしょうが、行為主体がまちゅんさんである以上は、ここに自己として現れている。それが単なるアバターとの違いということです。
吉藤所長)まちゅんさんに聞いてみたいことがあります。このカフェでふだんどのような接客を行っているか、どんなタイミングで手を挙げたり、首を振ったりしているかというデータを全部AIに学習させれば、結構簡単に機械学習された「まちゅんロイド」を作ることはできるかもしれません。まちゅんロイドがたくさんいて、まちゅんさんが寝ている間も100人を相手に話をすることができて、その報酬がまちゅんさんに入ってくる――。そういう世界を望ましいと考えますか。
まちゅんさん)望ましくない、嬉しくないなっていうのは直感できるのですけど。なぜかと言われたら、ちょっとごめんなさい、まだ言葉にはできないのですが…。
吉藤所長)私たちが分身ロボットカフェで実験をしていると、「これはAIを育てているわけですよね」って言われることがたまにあります。今、海外でも人がロボットを遠隔で操作して家事などをやり、ロボットに学習させている。同じように、このカフェでも接客AIを育てているのではないかと聞かれるわけです。
出口教授)そこでやっぱりポイントとなってくるのが身体性なんですよね。いろいろな接客パターンを機械学習させて、なんなら本人よりも上手く再現したりすることは起こり得る。そうすると、オリジナルの意味は何なのか。やっぱり身体なのです。かけがえのない、脆弱で絶対に終わりがあるという有限性。これがAIとは決定的に違う「価値」です。
吉藤所長)そういえば、人間はAIエージェントや対話型AIに対して意外とひどいことを言いますよね。AIに傷つきやすさや脆弱性があるとは、認めていないからだと思います。相手が儚く有限であるからこそ、人は優しくもなれる。そんなことを感じます。
――「下」に続く
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